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カートが空です

次の世代に繋ぐ<br> - 地域ブランドが生み出すニット製品  -

自動車メーカーであるSUBARUの前身となる中島飛行機の技術者が、糸をつむぐ「手紡機」を製造したことがきっかけとなり、太田市では戦後からニット産業が始まった。

ところが、一時期は200社近くあったニット工場も、今では10社以下という状況になっている。

この状況を打破すべく「OTA KNIT」という地域ブランドを立ち上げ、立ち向かっているのが、マウンテンディアーというアパレルメーカーの創業者である山鹿雅明さんだ。

そこには「次の世代の人のために」という清らかでありながら、とても強い山鹿さんの想いがあった。

 

自分たちだけが良くても意味がない

山鹿さんは群馬県の太田市で生まれ育った。

「高校までは群馬にいて、その後、大学の工学部へ進学しました。ただ、元々洋服が好きだったこともあり、パターンの勉強をするために服飾の学校にも通い始めました」

そして大学卒業後は、有名なアパレルブランドであるアニエスベーへ就職した。

「アニエスべーでパタンナーとして仕事をした後は、ITの道に進みました。ただ、いつかは地元に戻りたいという気持ちもあったので、結婚を機に地元に戻りました」

そして、地元である太田市でマウンテンディアーを立ち上げた。

「ある時、太田のニットは八十年以上の歴史を持つ産業であることを知りました。そこで、太田のニットで自社商品を開発し、その八十年以上の歴史をストーリーとしてを用いて販売することにしたんです」

結果的に、その歴史があったことで多くの恩恵を得ることができたという。

「その時に思ったのは、これを自分で独り占めしてはダメだと思ったんです。次の若い世代の人たちにも繋げたいと思いました」こうして山鹿さんは、自社だけでなく太田全体で使える地域ブランドとして「OTA KNIT」を立ち上げることとなった。

 

与えられたものを次の世代に返す

山鹿さんが「OTA KNIT」を立ち上げるきっかけとなった「次の世代に繋げたい」という想いには、強い原体験があった。

「三十歳の時に、やりたいことをやらずに後悔したくないとの思いから海外で2年くらい暮らしました」

この時の海外での出来事が、山鹿さんの人生における転機となる。

「海外を旅してまわっていた際に、たまたまそこに居合わせたおばあさんが荷物をバスから降ろすのが大変そうでした。『手伝いますよ』と声をかけたのですが、それをきっかけに一緒に旅をすることになりました。一緒に旅する間は費用もほとんど出してくれました」

その旅の最終日におばあさんから伝えられたことが、今も心に残っているという。「おばあさんにお世話になったので、お礼をしようと思いました。そしたら、おばあさんから『あなたが人に何かをしてあげられるようになったら、私ではなく次の世代の人たちにしてあげなさい』と言われたんです」

この原体験が、自分が与えてもらったものを、次の世代に渡していくという価値観につながっている。

 

地域の仲間と共に育てる

そんな山鹿さんが「OTA KNIT」という地域ブランドを育てていく上で大切にしたいこととは。

「太田のニット工場同士は、本当に仲が良いです。だからこそ、地域の会社だけでブランドを大きくしていきたいんですよね」

一方で、足元には大きな問題もあるという。「地元のニット工場は、後継者不足の問題が大きい。だからこそ、地域ブランドとしての『OTA KNIT』を広めていくことで、意思ある若い人たちに働きたいと思ってもらえるようにしたいんです」

工場見学に伺った際、地元のニット工場の方々の言葉から、「OTA KNIT」という地域ブランドを立ち上げた山鹿さんへの高い期待を感じた。

原体験から生まれた山鹿さんのこの強い想いは、これからも決してブレることがないだろう。