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諦めない強さと温かさ<br> - ブナの木で作るインテリアグッズ -

諦めない強さと温かさ
 - ブナの木で作るインテリアグッズ -

日本でもトップクラスのりんごの生産量を誇る青森県弘前市。その弘前市で1963年に設立されたブナコは、ブナの木を使ったテーブルウェアや照明、インテリアグッズのメーカー。

2代目社長の倉田昌直さんは、どんなに苦しい経営環境でも”諦めない”という姿勢を大切にして、乗り越えてきた。

その根底には、自身の家族や社員、会社を応援してくれた人たちを”がっかりさせたくない”という強く、そして温かい想いがある。

 

大切な人たちを支えるという覚悟

青森県内に豊富にあるブナの木を活用するために、ブナコの技術は1956年に考案され、特許を取った。性質上、資材としては使いづらいとされていたブナの木の加工技術として、当時としても画期的だった。

「元々は、地元の有力者たちがその技術を元に会社を設立したのですが、その会社が3年で潰れました。その時、祖父が『青森の資源を生かす技術が失われるのは、もったいない』と考え、その会社から技術を買い取り、父親に会社を始めさせたのが始まりです」

そして1980年、倉田さんはブナコへ入社した。

「私は大学を卒業してから、百貨店問屋へ就職し、東京で修行していました。2年が経過した頃、父に『そろそろ帰ってきても良いんじゃないか』と言われて、青森へ戻りブナコへ入社したんです」

しかしその直後、予想していなかった出来事が起こる。

「私が入社して1ヶ月経った時に、父が突然倒れ、亡くなりました。その後を引き継ぐことになり、入社後すぐに社長になったんです」

経営の実践や事業のことは、分からない中での社長就任だった。

「社員に何かをお願いしても『お前に何が分かるんだ』と言って、お願いを聞いてくれない。精神的に追い込まれて、会社に行くことができなくなりました」

母親が作る弁当を持って、朝、家を出て会社に行くフリをして、時間を潰してから夕方、家に帰るという生活を続けたという。

「ある時、夕方、家に帰って和室の扉を開けた時、母が父の仏壇の前で泣いていたんです。その姿を見た時に、このままではダメだと思ったんです」

倉田さんは、この時、会社と家族を自分が支えるということを強く決意した。

 

結果を出すことで築いた信頼

そこからブナコは大きく変わっていくことになる。

「ブナコの商品は、日本クラフトコンペ・京都の第一回目でグランプリを受賞しました。ただ業績が良いわけではなかった。作っているモノが社会のニーズとズレてるんだと感じました」

倉田さんは、まずは業績を立て直すために、新たな商品開発を行うことにした。

「当時では珍しいワインカラーの漆器調の商品を作ったんです。初めて展示会に出品した時、他の問屋からは『そんな物は売れるはずがない』と言われました。ただ漆器の業界で有名な大手百貨店のバイヤーさんが『見たことない商品』と言ってくれ、その大手百貨店での導入が決まりました」

そこから、この商品シリーズは毎年売上を伸ばした。

「最初は言うことを聞いてくれなかった社員も、徐々に認めてくれるようになりました」

商品開発を始めた当初は反発もあったが、まずは業績をあげて社員と会社を守るという強い決意で進めた結果だった。

 

どんなに苦しくても諦めない

倉田さんが社長になってから、20年弱の間は業績は堅調だった。

「1997年を境に、その後の2年間くらいで一気に売上が落ちました。会社が潰れるかもしれないという状況になったんです。成功体験があったから、商品を大きく変えられなかった」

しかしその時、スポットで受けていた照明作りの受注をきっかけに、自社商品の大幅な刷新を決めた。

「刷新する商品を作りたいけど、お金がない。県と国の補助金があるのを探して申請したり、銀行の助成金を利用したりして、お金を集めました」

苦しい時を乗り越えた経験が、今のブナコの中でも大切されている。

「どんなに苦しい時でも絶対に諦めない。僕が諦めていたら、社員を路頭に迷わせることになっていたし、祖父や父が残してくれた想いやブナコの技術を失うことになっていた。がっかりさせたくないし、裏切りたくなかったんですよね」

工場見学でブナコの製法や商品を見た時、木の温もり以上の温かさを感じた。それはきっと、ブナコ/倉田さんの人の想いを裏切らないという温かさが加わっているからなのだと思った。