有田焼で有名な佐賀県西松浦郡有田町で、昭和30年に立ち上げられた貝山窯。
3代目社長の藤本和孝さんは、自社ブランドである「 si ku mi」を開発した。そこには、創業者である祖父と父への想いが詰まっている。
藤本さんが、貝山窯のルーツに想いを馳せ、世代を超えて繋いだ想いを伝えたい。
楽しい時を過ごしてほしい
藤本さんは焼き物を学ぶために地元の高校へ進学し、その後、有田焼の専門学校に3年間通い、貝山窯へ入社した。
「30歳くらいの時に社長へ就任しました。その後、有田焼が400周年を迎えるタイミングで、自分の窯元のルーツを調べたんです」
その時、祖父や父が焼き物を通じて伝えたかったことに想いを馳せたという。
「祖父が焼き物に施していた 彫刻は” 四海波 ”と名付けたオリジナルの波の柄。調べてみると、” 四海波 ”は結婚式で歌われる歌の歌詞のワンフレーズでした。賑やかで楽しい時やおめでたい時に使ってほしいという想いを込めたんだと思いました。そして、父はその彫刻を施した大きな皿を作りました。楽しい時を大勢で過ごしてほしいという想いを込めたんだと思います」そのことがきっかけとなり、藤本さんは、四海波の彫刻を施した大皿に、小さな取り皿をセットにした組皿のブランド「si ku mi」を開発した。
「食事は毎日繰り返されるものですが、お皿一つで新鮮味を加えられる。それによって華やかなシーンになったり、会話が生まれたりします。食事をしている空間や時間を、より楽しんでもらえるようにと思って si ku miを作りました」
そしてその根底には、辛い原体験から生まれた”人と人の繋がりを大切にしたい”という価値観がある。
辛さと悲しさに向き合い、前へ進む
昔から藤本さんのご家庭は、とても賑やかなシーンが多かったという。
「祖父も父も賑やかなことが好きで、正月やお盆には親戚みんなで集まり、楽しく過ごしていました。そして、そこにはいつも焼き物の器がありました」
藤本さんにとって、焼き物は楽しい空間の象徴でもあった。
しかし、状況は大きく変化していく。
「僕が中学校1年の夏に、父が45歳で病気で亡くなりました。ただ仕事も忙しかったみたいで、治療をしながら働いてましたね。相当辛かったんじゃないかなと思いまが、最期まで子供たちには、辛さを全く見せませんでした」そして、まだ不幸は続いた。
「母も病気になってしまい、僕が高校2年の時に亡くなったんです」
この原体験が、藤本さんのモノづくりにおける強い価値観を形成した。
「両親が亡くなってから、祖父母や親戚が助けてくれました。だけど、両親が生きていた時と比べると、楽しい食卓や人との繋がりが減りました。だから、楽しい食卓のシーンや、人と人の繋がりを大切にしたいと、より思うようになりました」
辛く、そして悲しい経験を経て、藤本さんの想いや価値観は、より強いものとなった。
世代を越えて繋ぐ
藤本さんは、創業者である祖父や父へ、モノづくりへの想いを直接聞くことはできなかった。
「本当だったら、祖父から父に想いを繋いで、父から僕に繋がるはずだった。だけど父が早くに他界したので、それができなかった」
そんな中でも、祖父がよく言っていたことがある。「祖父は『ちゃんと焼け』とよく言ってました。ちゃんと焼かないとすぐに割れてしまうんです。お客さまが、せっかく買ってくださるのだから、割れやすい焼き物は作るなということですね」
一度は途絶えてしまった貝山窯の想い。
しかし、強い想いと価値観を持つ藤本さんが、祖父と父が残したモノから、二人の想いを感じ取りながら、そこに自分の想いを乗せて「 si ku mi」を開発した。
藤本さんが繋いだ貝山窯のこだわりや想いが詰まった「 si ku mi」で、大切な人との食事を楽しんでほしい。