1200年の木工の歴史をもつ小田原で、伝統を守るのではなく、伝統を創るためのモノづくりを行っている薗部産業。
工房の前を流れる酒匂川の湿気を含んだ小田原の風を製造工程の中で活用するなど、”小田原”の恵みを生かしている。
現社長の息子として生まれた薗部弘太郎さんへインタビューをさせてもらったが、物事に対して真っ直ぐに疑問と興味を持つ方だった。決められたレールの上を走ることが嫌で、全く違う業界に就職した薗部さんが、家業を継ぎたいと思った理由とは何か。
グッドデザイン賞の受賞歴もある薗部産業がモノづくりを行う上で、大切にしている想いと一緒に感じてみてほしい。
自分の興味や疑問に真っ直ぐに
山梨県南都留郡の道志村で生まれた薗部さんの曽祖父が、長野県の諏訪市で材木屋として創業した会社(薗部木工)が薗部産業の前身となる会社。祖父の時代には小田原へ会社を移し、父の時代に薗部産業へ社名を変更。材木の提供ではなく木工商品を作る事業を始めた。
「小さい頃から、父に連れられ会社に来て、端材(=余った材料)でオブジェとかを作っていた。だから算数や図工が好きになったし、ゲームするよりも、楽しかったんです」
ゲームは誰かが作ったもので、結果が分かっている。それをただこなすことに面白さを見出せない薗部さんは、幼い頃から決められたレールの上を走ることを嫌っていたのだろう。
そんな薗部さんは、あらゆることに対し、興味と疑問を持ち、行動を起こす人。
「自分のルーツが知りたくて一人で諏訪市に行ってみたり、扱っている材料のことを知りたくて一人で東北まで行ったこともありました」
一度だけの人生なので、一つでも多くのことを知りたいという薗部さん。あらゆることに対して、鵜呑みにすることはせず、真っ直ぐにその背景を知ろうとする薗部さんから感じたのは真摯さだった。
自分の手の中に残る仕事の大切さに気づく
大学で工学部に進んだ薗部さんは、家業を継ぐことは無いと考え、鉄道のブレーキメーカーへ就職。
「当時は、木工商品では人を幸せにできないが、多くの人に利用されるインフラ業界であれば人を幸せにできる、と考えていました」
時代に名前を残す、という覚悟で、就職した会社で必死に営業の仕事に取り組んだ。そしてその努力が実り、最年少で社長賞を獲得した。
「成果を残すことはできたけど、自分の手の中に何も残らないことが違和感でした。要は、モノづくりのリアリティがなかったんです。ずっと好きだった図工から、すごく離れた仕事をしていることに気づきました」薗部さんが仕事をする上で一番大切にしたいことは、父に連れられ会社に来て、自分の手でモノを作っていた幼い頃の感覚だった。それに気づいた薗部さんは、就職してから3年後、初めて実家に帰った正月に、父へ薗部産業に入社したいことを伝えた。
「鉄道のブレーキメーカーへ就職する時に、親とは喧嘩をしていたのですが、戻りたいと伝えた時は、すんなりと認めてもらうことができました」
薗部さんが戻ってくるのを誰よりも待ち望んでいたのが、ご両親だったのだろう。
他の人の幸せのために
薗部産業では、目の前の仕事が1ヶ月後のありがとうに繋がる仕事=手に残る仕事、ができていると実感している薗部さん。
「『料理が美味しくなった』とか、自分達が作ったものを使ってくれているレビューを見る時が一番嬉しい」
かつて、自分の名前を時代に残したいと思って仕事をしていた薗部さんはもういない。
「今は、薗部産業の仲間の技術を時代に残したいと思っています。縁の下の力持ちの方が、自分には向いてると思います」
明るく自然な笑顔でそう話す薗部さんが、仲間の技術と同じくらい大切にしている薗部産業の想いがある。「木は切っても生きているから無理をさせると壊れちゃう。環境に対しても無理をすると、素材って自然で生まれるものだからこそ、採れなくなる。また端材も無駄にしてはダメ。そして、最後は自然に還すことができる循環型のモノづくりを行う。これらを大切にしているんです」
薗部産業は、木材の産業廃棄物を全く出していない。端材は炭にして自社利用し、木屑は牧場へ提供し、馬のベッドになった後は最後は土に帰っていく。ブランドコンセプトでもある「無理なく、無駄なく、土に還るまで」を体現している。
家業を継ぐつもりがなかった薗部さんが、両親に頭を下げてまで薗部産業へ戻ってきた理由。それは、商品を使ってくれる人の幸せを大切に”手の中に残る仕事”をすること。
薗部産業の商品の本当の魅力は、商品ひとつひとつに込められた ”料理をより美味しく感じるように” という想いなのだと思う。