1930年に東京の日本橋で創業された小宮商店は国産の洋傘メーカーである。創業者が山梨県出身だったため「甲州織」の傘専用の生地を使い、職人が一つ一つ丁寧に作り上げている。傘を広げる時の感覚や広がった傘の形を見れば、量産品との違いをすぐに感じることができるだろう。そんな小宮商店のこだわりは”手づくりの美しい傘”と”地に足のついた経営”。それが意味することとは何なのか。3代目社長の小宮宏之さんにお話の中に、脈々と受け継がれてきた小宮商店の価値観があった。
厳しい経営状況でも、品質へのこだわりは捨てなかった
小宮さんは大学を卒業後、メーカーでエンジニアとして仕事をしていた。2000年に2代目社長だった父から声をかけられ、小宮商店へ入社した。
「1990年代から、500円の傘や100円のビニール傘が一気に出てきた。なので、価格の高い国産の傘は売れない時期でした。既存の取引先がだんだんと無くなっていき、新規取引先を開拓しても補えないような状況。年々売上が下がっていったんです」小宮さんが入社した当時の経営状況は、本当に厳しいものだったという。
「父の時から経営は苦しかったが、職人さんを守ろうと思い、なんとか職人さんに仕事を発注して商品を作ってもらうことを続けたんです。当時、職人さんとの関係を切っていたら、今の小宮商店はなかったでしょうね」
今日の小宮商店が、価格競争に巻き込まれず、独自のポジションを築けているのは、経営が苦しい時でも、職人の技術、すなわち商品の品質にこだわるという意思決定があったからなのだと感じた。
技術を繋いでくれた職人へのリスペクト
「小宮商店へ入社してすぐ、職人さんのところへ勉強しに行ったんですが『これは自分には無理だ』と思いました」小宮商店の傘は、製造工程が多いことに加え、細やかな仕事が多い。小宮商店のこだわりである傘の形の美しさは、生地を裁断するときの木型が大きく影響する。職人さんはその木型を自ら作り、生地の状態に合わせて、ミリ単位で調整している。
「当時、手作りの傘は伝統工芸品の指定ではなかった。だけど、作る過程や作り方、それを今も受け継いで作り続けていることを考えたら、十分に伝統工芸品と言えるんじゃんないかと思ったんです。歴史をさかのぼり、明治時代に作られた傘を探すなど様々な調査を重ねて約8年の年月を経て2018年、『東京洋傘』として東京都の伝統工芸品に指定してもらうことができたんです」
価格が安く大量生産品の傘が台頭し、苦しかった時代に、技術を繋ぐことを諦めなかった職人への強いリスペクトが小宮さんの中にある。
「なんとかなること」と「なんとかならないこと」
小宮さんは小宮商店に入社する前、インドへ旅行に行ったことをきっかけに楽観的になったという。
「インドで生水を飲んでる日本人がいたけど、たまにお腹を下すくらいで致命傷にはならない。世の中、大概のことは何とかなるんだなと。だから苦しい経営環境下でも、”なんとかなる”と思ってやってました」そんな小宮さんが決して譲れないこと。それは「地に足のついた経営」を行うこと。
「会社を急成長させようと思っていない。急成長させようとすると、一気に大量に作らなければならない。でも、うちの場合は職人さんの手作り。職人さんを一気に増やすことはできません。無理にたくさん作ろうとすると“美しい傘”は作れない。お客様からの信用を失ってしまう」
小宮さんの中で、品質へのこだわりをないがしろにすることは「なんとかならない」ことなのだ。
創業者の祖父も創業後30年は自分一人でやっていたという。きっと、自分の技術で確かなモノを作るということへのこだわりが強かったのだと思う。
「祖父も父も欲のない人でした」
そう話す小宮さんもまた、職人の技術と国産の傘を愛す、良い意味で欲がない経営者だと感じた。実用性と美しさを兼ね備えた小宮商店の傘を見た時、雨の日が少し待ち遠しい気持ちになった。その傘を通じて、小宮さんの譲れない想いを感じてほしい。